ユカタ・後

(奇譚)

「天体観測にいこうぜ、英二朗。なにかわかるかもしれない」
「いいけど、明日にしようよ」
 ユカタはいいけどという部分だけ聞いた。

「そろそろ夏休みも終わりだ」
 どたどたと台所に駆け込むと、時計は9時を回っていた。そうしたら、なんとなくユカタが居なくなることが分かった。つんと鼻が痛くなって、寂しさがこみあげてくる。
「おいおい。普段だってどこにでも居るんだからな」
 ユカタは引き出しの奥からラップをつかみだし、朝食のトーストの皿に何重にもぐるぐると巻いた。
「なにしてるの?」
「これさ、これ」
ユカタはラップの芯を取り出してみせた。
「望遠鏡さ」
 ユカタにはなにを言っても無駄だということを、ぼくは頭の芯でぼんやりと理解している。そういうもんだ、ということだ。
「準備しろよ、夜は冷えるぜ」
 ジャンパーを手に取ると、ユカタは違うと首を横に振った。ぼくは黙ってトイレットペーパーの芯をふたつ持ってきてセロテープで巻いた。
 ユカタはとても満足そうに頷いた。
「これを使って太陽を見てはいけません、だぞ、英二郎」

「どこまで行くの?」
 ユカタのずんずんと進んでいく先は、とんでもないことに市街地の中心からちょっとずれたような通りに入っていく。何度もぐねぐねとした道を曲がり、フェンスも越えた。
「ねえ、どこまでいくの?」

 たどり着いたのは、なんだか薄汚れた、使われていないビルのようだった。ガラス扉を押して入ると、ユカタはぼくの手首あたりを引いてずんずんと進む。
 その動きと言えば堂々たるもので、ぼくは呆れてしまった。エレベーターがあったが、ユカタは非常階段に回るとカンカンと上へ登り始めた。
 階段をぐるぐる回っているうちに、ここが何階だったのかもわからなくなる。最初はそっと忍ぶような足取りだったのに、自棄になって、音が響くのも気にしないでずんずん進んだ。
 ユカタは、疲れないのかな。
 ぼくはぜえはあと息を切らしていた。永遠とも思えるような長い階段を上りきった後。
 ユカタが適当にドアノブをガチャガチャやると、扉はあいた。めりっとした音がしたのを、ぼくは冷や汗とともに聞き流すことにした。ビルの床をほこりが渦巻いてぐるぐると回った。

 屋上には、ひんやりとした風が吹きすさんでいた。ユカタはラップの芯を掲げるとにかっと笑った。
「何か見える?」
 ぼくは空を見上げながら聞いた。空には微妙に薄く雲がかかっていて、特別ということはなんらなかった。
「星だね」
 ユカタは言った。
「北斗七星って言うんだ」
「知ってるよ」
「あそこからきた」
「なんだって?」
 ぼくは聞き返す。
「なんていったの?」
「ここで生まれて、あそこから来たのさ」
 ユカタは身を乗り出して宙を指した。フェンスは錆び付いていた。
「危ないよ」
 僕はぎょっとして、ユカタに手を伸ばす。届かない。ユカタは聞きもしなかった。
「あの星とあの星の間だ。見えるか?」
 ユカタはぼくのわき腹あたりを持つとひょいと抱き上げた。ふわりと体が浮いて、ぼくは、ほんのすこし宙に浮いた。
 ユカタからぼくに触れたのは初めてだ。
 重力で足が真っ直ぐになった。ぼくは、ユカタの膝の上で、とっぷりと暮れた空によく目を凝らした。ユカタの指は、ひしゃくの柄の中央あたりを指している。暗い雲はカーテンのように重く、星は見えなかった。
「みえない」
「っしゃあ!」
 ユカタは心底嬉しそうに笑った。
「情けないな!」
 嬉しそうに、何度も何度も背中を叩いた。



「どっちだった?」
 と、庄一は聞いた。
「男の子だったわ」
 ハンドバッグを脇に置きながら真由子は答えた。庄一が目を細めるのを見て、真由子はふんと鼻を鳴らした。
「残念ながら、あなたも正確にあたりってわけじゃないの」
 真由子は得意げに名前のリスト紙を畳んだ。
「双子だったのよ」
 庄一は、ははあとため息をついた。なんだか真由子が負けるのが悔しくて帳尻を合わせたような気がしたのだ。
「どっちもユカタでいいじゃないか」
 ぱさりと新聞を膝からよけると、庄一は椅子に深く座りなおす。
「よくないわ。だからね、新しい名前を考えてちょうだい」
「ふたりぶんか……」
 どちらかというと、庄一はこういう類の事は苦手だった。
 クリエイティブなんぞは範疇ではないのだ。なんだかなあ。庄一はゆっくりと目を閉じた。



 どうしてだろう。登るときはあんなにたいへんだったのに、帰るときは一瞬だ。
 気が付いたら、ぼくは布団でぐっすり眠っていた。
 ユカタは夜遅くまでハレー彗星を二回みたとうそぶいていてなかなか寝付かなかった。



 いったい、ユカタって、なんなのだろう。

 ユカタと遊んで、たまに、夜に星を見に行って、テレビを見て、宿題なんてやって。
 考えちゃダメ。考えちゃダメなんだ。

 次の日の朝、ぼくはユカタをわざとふんづけてやった。ユカタは布団の上で呻いて少しもぞもぞと動いた。ユカタが起きてこないのでぼくは少し不審に思った。
「頭が痛い」
 そう言ったっきり、ユカタは動かなくなった。おとなしいな、と思ってそっと布団のへりをめくってみる。ユカタの額にうかぶ汗の量がふつうじゃなかった。顔色は青ざめていた。
 奇妙に伸ばしたユカタの肘が椅子をひっくり返してガシャンと音を立てた。
「水」
 ぼくはひどく悲しい気持ちになった。ユカタは震える声でそう言った。ぼくはユカタの額に手をやった。ユカタは驚くほどに冷たかった。背筋がぞくりとした。同時に、きちんと触れられることに驚いた。というよりは、それほど触ろうと思わなかったことに驚いた。
「死ぬの」
 ぼくは思わず聞いた。
「いや」
「死んでるの」
「いや」
 ぼくはほっとしそうになってなおも不安で念を押した。嫌な予感はほぼ確信に近かった。
「死んでないよね?」
「いや」
 ユカタは黙った。ぼくも黙り込んだ。不意に、目覚ましの音が静かな部屋に響いた。
 ユカタはわずかに布団から這いだして目覚ましのてっぺんを叩くと言った。
「何をもって始まりとするのか、による」
「むずかしいよ」
 ぼくは言った。
「生きていないのかもしれない」
「しっかりしてよ」
 ユカタを掴む。ぼくの頭に妙な焦りが生じる。ユカタがぼんやりと透けている気がした。もちろん気のせいだ。
「ちゃんと生きてる」
「水をくれるかな」
 ユカタはうんざりした顔だった。ユカタがぼんやりと揺らいだ。
「頭が痛いんだよね」

 それ以来、ユカタの元気は目に見えてなくなった。ぼくはユカタが心配で、でも、それ以上に出来ることもなかった。



 真由子は泣いていた。
「消えてしまったの」
 真由子はやはり泣いていた。
「ひとり居なくなってしまったの」
 庄一は真由子の背をさすってやった。
「酷いわ」
「惨いな」
「私、前にうそをついたのよ」
 真由子は泣きじゃくりながら言った。
「赤ちゃんなんていなかったのに、いると言ったのよ。罰が当たったの」
 庄一は首を横に振った。
「隕石だって当たるときは当たる」
「なにそれ」
 真由子は目をはらして泣き笑いになった。
「なによそれ」
「知ってたさ」
 庄一は笑う。
「なんとなく信じてたけど、あのときはもちろん知ってたさ。信じるのと知ってるのは違うことだよ」



 もうすぐ、夏休みが、終わっちゃう。

 ぼくはユカタを残して部屋を出られなかった。太陽が、ぼくを見ていた気がしたから。

 夏休みもいよいよ終盤に差し掛かろうというころだ。ぼくはあらかたの宿題を終えて、絵日記を埋めていた。ユカタは相変わらず減らず口を叩いてはいたがどこかうわの空でぼんやりとしていた。

 カーテンを閉め切っていたので、部屋はじめりとして熱かった。汗がだらだらと出た。目覚まし時計の昼と夜は、どっちなんだろう。
「はじめから決まってるんだ」
 と、ユカタはうわごとのように言った。
「誰が死ぬかは、決まっているんだ。だから俺たちは死ぬはずだった。けれど産まれるひとを数えるところと、死を看取るところは違うところなんだ。ちょっとタイムラグがあるんだ」
 部屋に増した熱気が倍になった気がした。ぼくが慌ててコップを持って蛇口をひねると、蛇口はぽきりと根本から折れた。ぼくはひどく間抜けな声を上げてのけぞった。継ぎ目から惜しまず水道水が吹き出した。慌てて押さえたけれど間に合わなかった。そうしているうちに、洗面所の方からも水柱が上がった。
「ユカタ、ユカタ、たいへんだ」
 ユカタは、やっぱり驚きもしないし、聞いてもいなかった。
「くるぞ」

 ようやく。ぼくは人を呼ぼうと思った。これは異常事態だ。あっというまに水位は足首ほどにまできていた。叫びながらぼくは必死にユカタを起こそうとユカタの胸元を引っ張った。ユカタはちょっと寂しそうに水に半身浸かったまま言った。ユカタの口もとで泡が弾けた。
「お前も昔は泳げたはずなんだけどな」

「死神は太陽から来るんだ」
 ユカタはうわごとのように繰り返した。「そういう連中なんだ」
 ぼくは弾かれたように立ち上がった。ぼくはこぶしを握ってダンダンと強く窓を叩くが、窓はびくともしなかった。ぼくはとっさに電話台に駆けよると背伸びをして、受話器を取った。通話中の音がずっとしていた。ぐんぐんと水位は増していた。ぼくは目を見開いた。水槽のなかに居る。水がせりあがってくる。
「思い出せ、英二郎やい」
 ぼくは呻く。思うように身動きがとれない。英二郎。ひとりでお外に出てはだめよ。まとわりつく水をたぷたぷと越えながら、母親の声を振り切って玄関まで走る。ポストまでもがぴっちりと口を閉じていた。ドアノブに手をかける。しゅっという浅い音がした。咄嗟に手を離す。手のひらは真っ赤でひりひりとしていた。
 おかしい。熱い。
 なんだか、妙に明るい。そう思ったとき、ベランダからカアッとオレンジの火の手が上がる。
「よし、逃げるぞ!」
 遠くでサイレンの音がした ピシピシと、水槽のガラスが暑さで妙に不快な音を立てて曲がり、窓枠が曲がり、足下の床が曲がる。ポンプの音は声に比べてやけにはっきりとしている。
「お兄ちゃん!」
 ユカタはむくりと起き上がり、水をゆっくりと掻きわけてぼくの肩をひっつかむと、ドアから引きはがし、ずるずると持ち上げる。そして、鏡の中に放り込んだ。頭の中で金属を弾くような音がした。



 ぼくは鏡の中にいた。ユカタは鏡の向こう側にいた。ぼくははっとした。ユカタの姿はぼくとも寸分変わらなかった。ぼくははじめてユカタと向き合っていた。ぼくは泣きべそをかいていたが、ぼくの頭はやけにはっきりとしていた。
 ぼくもユカタだった。
「えいいちろう?」
「いや」
 ユカタは言った。
「いや、先に入ってた方が兄ってはなしもある」
「えいじろう?」
「どっちだろうな、選んでいいぞ」
 凄い勢いで火柱が上がり、鏡一枚隔てて部屋の中に吹き込んだ。ぼくの前髪はちりちりと燃えた。ユカタは掠れたが平気そうにしていた。
「知ってるか、有機物しか燃えないんだ」
 ぼくは苦しかった。
「一人っ子だと思ってた」
「おんなじだ」
「父さんと母さんは教えてくれなかった、きょうだいがいるってこと」
「誕生日と葬式は同時にするもんじゃないのさ」
 ユカタは微笑んで言った。
「そんなの、別にいいよ」
 と、ぼくは強がった。ユカタは目を細めた。その仕草が父さんと、おそらくぼくに似ていた。
「じゃ、また」
「また忘れるの」
「父さんと母さんは隠してるよ」
「きょうだいなのに」
「だからさ」
「確かめるよ。なかったことになるなんてひどい」
「忘れるのさ、そういう決まりだ」
 ぼくの顔はくしゃりと歪んだ。
「生まれたばかりはみんな頭まっさらって決まってるんだ。戻るだけだよ。でも忘れたらまたくるよ」
 警報装置がけたたましく鳴った。見慣れた部屋は半壊ほどしていた。僕は手を伸ばしたが、鏡の表面に突き当たる。逃げろ、という声がやけに遠くに聞こえる。
「ユカタもこっちにきて」
 ユカタの目が、満足そうに諦めろ、と言っていた。ぼくは両手をぎゅっと握りしめた。
「どっちかしか入れない」
「早く忘れるよ」
「なんてやつ」
 ユカタはちょっと笑ってみせた。
「また会えるかな?」
「思うに、もともと俺はお前の中にいるよ」
 時計が12時を跨いだ。
 昼か、夜か。



 気が付けば、もうとっくに秋だったのだ。僕は気が付いた。夏は過ぎていた。少し涼しくなったおかげで、ぼくはひどく冷静になれた。
 全くのコントラストを呈するようにぼくらのいた木造アパートが燃えていた。ぼくたちのいた部屋だけが、四角く焦げたトーストのように焼けていた
 焼け跡には母さんの大きな化粧台が鎮座していた。
 ぼくはびしょぬれでそのそばにへたり込んでいた。

 結局、火事の原因は分からずじまいだった。
そのころにはぼくはユカタの顔すら思い出せなくなっていた。頭がガラス一枚隔てたようにぼんやりとしている。ぼくはちょっとすすけたくらいで、無傷だった。ユカタ?ユカタってなんだ?
 両親が駆けつけてきて、ぼくをぎゅっと抱きしめた。

 ぼくは声を上げてわんわんと泣いた。ユカタがいなくなっちゃったんだ、と言って泣いた。なんなのかわからないけど。父さんは目を少しだけ丸くした。母さんはそれを聞いて、また、ちょっと泣いていた。母さんは左手に包装紙でつつまれたプレゼントを持っていた。
 父さんはいちごのホールケーキを持っていた。
 今日は、ぼくとユカタのお誕生日だ。

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