『サーモン』

(サーモン)

”ああ、サーモンよ!愛しきさかな!”

 しかも私はサーモンが好きなあまり、サーモンの死を望むのだ。この上なく身近で新鮮な死だ。安らかな死だ。そして、なるべく新鮮な死だ。
 なぜなら、私が愛しているのは、その御すがたのみならず、サーモンそれ自体であるからだ。

 滝をさかのぼる美しい腹には、たっぷりとした脂をたくわえて……。
 私は、せめて、その愛しいサーモンの身を切り落とす包丁が鋭利で青く、うっとりするほど細く、サーモンの身に滑り込むために、芸術的な刃を持っていることを祈っている。
 そうあるのには偽善者である必要すらなかった。誰もがそうであったように、ただ海に感謝すればいい。だから私は、地図で太平洋をなぞりながら、冷たい海水でぎゅっと引きしまったサーモンの身に思いを馳せる。メニューの裏に描かれた、幾層も重なり合った脂肪分の筋が、脈々と受け継がれてゆき、想像の中でサーモンは一回り、一回りと、また、大きくなる。

 パスタにえびのひとかけらが入っているとする、あるいは皿にちょこんと乗ったトリュフだ。コース料理のさいご、メインディッシュとばかりに白い皿の中央にソースを纏って鎮座している。待ちこがれた、極上の一切れ!
 しかし、待たれよ。なにも、なにもそうである必要はない。その希少さが旨みと引き換えであるという道理は、ないのだ。トリュフやフォアグラや、あるいはその他の高級珍味を口にしなければならないような必然性はない。世界珍味に勝るとも劣らない。サーモン!あの生き生きと脂ののった、かけがえのないぽってりとした切り身が、いったい淡白なマッシュルームを買うかわりに何グラムと買えるだろう!

 おお、サーモン!

 サーモンを食すには、ただ待てばいい。兄弟と意地汚く争う必要もなければ盛りつけたウエイターをののしる意義すらない。
 サーモンはどっしりと、一区画、まるきりサーモン一色なのである。頭から尻尾まで、極上のサーモン!
 サーモンは自ら主張しないが、あるいは鮭という謙虚な一文字に収まりながらも、常に食卓という場を支配している。一貫の寿司、それでもいい。蛍光灯を照り返してきらきらと光っている表面の、つるりとシャリの丸みに寄せて、なおすっとした鋭角を横たえるサーモンはどうしようもなく食欲をそそる。
 耐えきれず、そっと箸でめくり上げて見ればどこまでもきちんと行儀よく斜めに線の入ったサーモンなのである。そうだ、あの白い飯と一緒になってこそ、サーモンはサーモンでいられるのだ。現代人が肉ばかり食べていられるものか。けれど、同じ鮭から派生した身でありながら、ぽろぽろとこぼれるいくらがなぐさめのようにサーモンを彩り、慎ましやかで泣けてすらくる。わさびすらあのぴりりとした辛みの中に舌からこぼれるようなきめ細やかさをみせる。決して攻撃的な刺激ではなく、静かで清涼ですらある。それがこんなにも身近にあるのだ。なんとも安い幸福だ。本来ならば許されないであろう贅沢が、よくわからない世界経済の仕組みで可能になっている。気が狂ってしまいそうだ。常軌を逸している。手を伸ばせばすぐにでも手の届く幸福だ。養殖だから、どうだっていうのだ。生まれ育ちなど関係なく、サーモンはただそこにある。

 だからこそ、サーモンを腹一杯食べてみたいと思う。サーモンで思い切り腹を満たしてみたいと思う。それこそ、動けなくなるほど、目いっぱいに。けれどもしもサーモンに満足してしまったらどうするのだ。欲望がこの上なく満たされててしまったら、もはや残された道は死ぬしかない。万が一にもサーモンで満足できなくなってしまったら、私の計画は、家計簿のやりくり、満足との兼ね合いはすべて水の泡だ。だから、いかにも全身全霊をなげうっても尚手の届かないところにある様な高嶺の花であるふりをして、もてはやし、賛美している方がちょうどいい。炙ったあの身に香ばしい煎りごまがふりかけられて、いかにも舌なめずりをして羨望のまなざしを向けているうちは飢えているが間違いなく幸せだ。幻想の中で、私は完璧なサーモンの虚像を味わっている。
 つまるところ、サーモンは人類には過ぎた贅沢なのだ。

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