本と鋲

(奇譚)

 あまり知られてはいないことだが、本は生き物だ。

 清潔な書店の本棚に並ぶのはどれもこれもが本の死骸である。私は本棚で埋め尽くされた空間の隙間を縫うようにしてその場に立っていた。本の発する独特の接着剤の匂いが鼻孔をくすぐると、気圧されて恐ろしく、いつも身震いする。
 気まぐれに立ち寄った駅前の本屋は雨の日にしては繁盛していた。辺りには4、5人の客がおり、少なくとも空間は静寂に満ちている。私はのらりと歩きながら、本をじっくり検分しているふりをしていた。中身を吟味するように緩く眺めては手に取ってぱらぱらとめくっている若者もいれば、ひょいひょいといくつか本を引き抜いてレジまで持ち去る男性もいた。
 私は微笑した。

 本は脱皮する。不完全な脱皮の瞬間に頁をきゅっと締めると、中途半端に出来上がる本の皮は本に巻き付いて本を飾り付ける帯となる。死にたての本は、ほやほやとして、ぬるく、まっしろい。まるで無垢そのものだ。本に何かを刻むにはこの僅かなときでなくてはならない。なにせしばらくすると本の表面がつるつると光沢を増し、水滴や汚れなどを弾くようになる。すると身に過ぎた過度な賛辞や墓碑名など、ありとあらゆる不名誉をかたくなにはねのけるようになる。本の、美しい外殻を持ち去る人々はやはり素晴らしい審美眼を持っているように見えた。
 貝殻遊びはそんなにお好きか。
 悪くない。

 店にしつらえられた棚は天井まで延々と延びているようにも思えた。私は、みっしりと詰まった本の重みが肩に乗るような息苦しさを覚えた。まるで巨大な標本である。二列にも三列にも並んでそこかしこにぎゅうぎゅうに詰まった棚は、ホルマリン漬けの瓶がずらりと並んだ倉庫のような、妙な空気をぴりぴりと頬に伝えてくる。
 私は一冊の本に目を留めた。古ぼけて無残にも硬化した本だった。私はそして、手のひらを伸ばして本の背表紙を撫でた。時として、脱皮した後にそのまま忘れ去られた本は固く表紙を閉ざし、気がついた頃にはほとんど内容を読むことができなくなっている。本の背は私を拒絶するように静かな冷たい温度を湛えていた。いつの日か秘密を蓄えすぎた本は、ついには千三百頁を越えるようになり、そのころにはもう並の人の手にはおえない。この本はもう、助からない。
 かたくなになればなるほど、本としての死が訪れる。貝のように石ころかパールを抱え込んで知識の海に沈没する。二度と浮き上がっては来ない。
 手垢の付いていない美しい本だった。誰にも愛されたことのない本だった。巡り合わせだけが悪かったのだ。
 張り付いて棚とほとんど同化しているそれを、私はどうすることもできずそのまま置き去った。
 出来ることならば燃やしてやりたかった。

 本は私のものではなかった。正確に言えば、本が私のものだったことは、一度たりとてない。本は遅かれ早かれ朽ちてゆく。ゆえに、程良いところで息の根を止めなくてはいけない。それには針と糸を使う。
 私にとっては慣れたものだった。紙束を糸で綴ると、本は小さくウッとうめき声を上げる。聞きのがしてしまいそうなほどには、小さな声だ。本の遺言は「ありがとう」「さようなら」「ごめんなさい」のいずれかである。生の本はいつでも気が狂うほどに美しい辞世の句を考えているが、結局はどれもこれも、シンプルな言葉に落ち着くようだった。ふっと事切れた本からは魂が抜けたようであり、重荷を振り切ったようにすっとぜんたいが軽くなる。

 艶のよいものを選ぶとよい。厚みのあるものを選ぶとよい。

 私は本が生きたままどうにかあの生命の重みを持ったままに閉じ込めておけないものかと気の遠くなるほどにずっと心を砕いていた。本を文章で綴ったあと、ゆっくりと本を絞める。殺さないようにそろそろと糸を引き絞ると弛めた糸はだらりと垂れさがり長いこと本を束縛した。最期の時、本は何も残さなかった。ただ息を漏らすように「ああ」とだけ言った。そうやってできた本は、ただのなりそこないだった。
 すかすかで軽かった。
 もはや紙の残骸に過ぎなかった。

 抜け殻だけを集めてはセミを見ている、そんな馬鹿げたことをしているのではないかという焦燥によく駆られる。風船の内側を覗き込もうとするような、馬鹿げた、まるで、胃カメラのような、そんな、馬鹿なことをしている気がする。
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